国家経営と、さとりへの道。


いま、日本は重税に向かい、民は疲弊し暮らしがたちゆかなくなっている。
この圧政はますます強烈になり、餓死者も出るだろう。
フェイスブック友達の田上さんは「国家経営のリーダーとして、民の幸福を最優先する指導者を望む」という。画像
たとえば、仁徳天皇の治世のような感じかなと思う。
仁徳天皇がある時に高い山に登って民の暮らしを見渡したところ、炊煙が上がっていない人家を見つける。この時に仁徳天皇は、災害や飢饉に見舞われ、人々は食べるものも十分に手に入れることができていないために炊煙が上がっていないのだろうと推測する。このことから仁徳天皇は3年間、税を免除した。そして民の生活が豊かになるまでは食事も着る者も倹約して、宮殿の屋根の茅の穿き替えも行わなかった。宮殿が荒れていっても人民が根本であるという考えからであった。それから民は豊かさを取り戻し、仁徳天皇が高台に登って民の暮らしを見渡してみれば煙が立っていたことから、民のかまどは賑わいにけりを詠んだ。
だが、国家経営とさとりはどうも一致しないかもと、くりもとはおもう。
釈迦は当時のインドで国家経営の王子としての生活を送りながらも、老い、病、死といった苦しみや悩みを背負って生きている人間の本当の解決を模索し、その解決のための真理を求めるため、29歳の時出家された。
つまり国家経営ではひとは救われないから、真理を求めそれをもって人類を救済するために王位を捨てたのだ。
政治=国家経営と、さとりによる解放はやっぱ、一致しなかったんだろう。
その真理はいまもいきていて、国家経営ではひとは永遠に救われない。と、くりもとはかんがえる。
そういえばキリストだって、国家経営に:手だししていない。
政治なるものは通俗的な手段系であって、目的たる人類の覚醒やさとりには似ても似つかぬしろものなんだろう。
いま、崩壊と再生の局面にある地球文明の中で、われわれは民をおもんぱかるつよい国家指導者を待望するが、よしんばそれがかなったとしても人類は覚醒できない。
覚醒は精神的な気づきなので・・・。
いま、人類にとって各人がさとりという真理のとびらをひらく、そのためにどんづまりの混迷がはじまる。
さっきも物質と精神の関係を投稿した
https://www.facebook.com/takahiro.kurimoto.1/posts/pfbid0hUyfYWUi1Qn2dmnk75aMAvarkKiXzKYAsWU9KAJQM62Sguz4mNXnZrupL5ZK2CwKlが、我々人類は当時仏陀が志向したような「真理による苦悩からの解放」をすべてのひとが希求するよりほかないとおもう。