拡大成長トレンドと縮小トレンド。

戦後70年という長きにわたって、世界は総じて平和・安定・グローバルを基盤にして、拡大成長トレンドを実行してきた。
日本でも、かつてはマンションを購入売却し、その差額利益を頭金にして戸建てに買い替え、どんどん資産を拡大成長させていくことができた。
アメリカでは個人が年金ポートフォリオや持ち家の値上がり評価益を担保にクレジットカードで買い物する、いわゆるエクイティーファイナンスの手法が一般的だ。これも拡大成長トレンドに乗っかって、資産の値上がり評価アップをテコにして、豊かさを獲得する図式だった。
さて、2022年の現在では、どうやらアメリカを中心とする西側資本主義陣営も、拡大成長トレンドの逆風をもろに受けているようだ。
戦後70年にしてはじめて、市場の逆回転を味わおうとしている。
いや、日本はすでに2011年から市場の逆回転らしきものを味わっている。
3・11東北地震と福島原発事故による死者数の増加である。
その暫時死亡数の増加が、ここにきて感染症およびその注射副作用等により、さらに顕著になり始めた。同時に、少子化および若年労働者の減少が地方社会に始まっており、地方自治体では「自治体の限界」を迎えるところも出てきた。
これが地域社会での交通手段としてのJR利用者離れとなり、駅前銀座はシャッター街となり、学校の統廃合やどんどん進み、いまでは「自治体としてどう生き延びるか」がメインテーマとなっている。
■縮小トレンドと金融システム破綻。
今日は先に、「アメリカ経済のトレンド変化」を投稿したが、拡大成長トレンドが逆回転する社会を、われわれは初めて体験することを知ってほしいと思って投稿した。アメリカで、資産運用が廻らなくなりホームレスとなる人が増加しているが、これからは中産階級や上流階級などアメリカ人すべてが逆風を受けることになるから、何が起きるかは想像だにできない。
究極は、不換紙幣の消滅(インフレによる猛烈な価値低下)さえ、起きるのではないか。
そうしたとき、貨幣という万能に見えたツールが、無意味なものになるわけで、多くの人類はその価値の変質を受け入れることができないのではないだろうか。
金融システムの破綻というものは、言い換えれば「貨幣のインフレによる猛烈な価値低下」ともいえる。
それは、戦後70年という長きにわたって人類が信頼してきた「平和・安定・グローバル」な豊かさを破壊してしまうものだ。
■生活維持と行政責任。
こうした生活苦に対して、アメリカではフードチケットの交付など最低生活保障がある。
「弱肉強食で冷たい」イメージが強い米国だが、じつは下流老人は手厚く保護されている。貧困ライン以下の収入しかない人は、65歳になれば最低限の生活費となる補足的保障所得(SSI)を受給できる。他にも低所得高齢者向けの家賃補助や、低所得者・高齢者向けの公的医療保険などが受けられる。
いっぽう、日本には生活保護があるが、ご承知の通り受給は狭き門で、憲法で言う最低生活が保障されているとはいいがたい。また最後の労働場所としては いわゆる失業労働者が建設関係で働くためのドヤ街として西成(あいりん地区)、横浜にある寿町、東京の山谷北千住があったが、いまでは都市美観向上で労働者は一掃され、緊急時の労働受け入れができなくなっている。
■ケチケチ行政と最低保障行政。
地方自治体の財政規律だが、長期不況下で思わしくない地方自治体が多い。そのなかで、阿南市は財政の豊かさが徳島県では二位であり、「ケチケチ行政」にこだわる必然性はない。
むしろ、最低生活にあぶれるような人を救済する最低保障行政を行う必要がある。
もし阿南市が「経済の縮小トレンドに応じて財政を縮小している」と回答するならば、「最低生活者の生活縮小はだれが面倒を見るのか」という倫理人道の問題になってくる。「自治体が生き延びることが目的なのか」、「市民が生き延びることが目的なのか」、という問いである。むろん、地方自治体の存続目的は組織の延命ではなく、常民最優先の生命保障が優先されるべきであり、「ケチケチ行政」にプライオリティはないといえる。
■通貨というものの変質。
さて、ここから、もっと先の時代変化を予測してみよう。
アメリカにおける天文学的な国債発行残高およびアメリカを中心とする西側資本主義の縮小においては、管理的ソフトランディングができず、暴力的な金融市場のクラッシュがおきるかもしれない。市場の逆回転を理性的に管理したり、自動売買システムのアルゴリズムにゆだねたりするのは「平時」であって、「緊急時」には予想外の売りが殺到し、システミックダウンや、市場の閉鎖が起きたりする。
なぜそうなるかというと、拡大成長トレンドで設計された金融システムは、緊急縮小時のパニック心理に対応できないからだ。
そして、拡大成長をプログラムされた我々現代人は、緊急縮小というプログラムを持っていない。だから、失うパニック、停止のパニックには精神的にも対応できない。
通貨の暴力的なまでの価値低下は、失うパニックを増大させ、人々を制御不能にさせるかもしれない。
■最終統御のための法的措置。
日本政府は当然ながらこうした可能性をシミュレーションしており、最も妥当だと言える法整備が、改憲での緊急事態条項における治安維持であろう。
緊急事態条項にあっては、内閣が全権を信託され、各種権限を掌握して治安維持にあたるとともに、罰則拘束なども即座に実施することで緊急事態への対応を万全にするだろう。しかしこれは自由や人権を封鎖する、もろ刃の刃である。
■最終市民生活の可能性。
さて、治安がある程度保障されたなら、地域社会は縮小トレンドの進んだ「停止社会」でどうやって生きられるだろうか。考えていく必要があるだろう。
「停止社会」とは貿易輸入が停止し、貨幣機能が停止し、各種商業サービスや行政サ-ビスが停止した社会である。金融経済のシステム回復を待つ間(数年かかるかもしれない)、地域社会は「停止社会」を生き抜いていかねばならない。
それは高度に政府機能が肥大した戦後社会とは全く違う、未開社会、例えば縄文社会や古墳社会のような様相を呈するかもしれない。
なぜかというと、高度な分業社会は電気石油エネルギーや資源を浪費することに立脚しているが、金融システムの逆回転や緊急停止においては、それらが円滑に循環しなくなるからだ。
そうなると、イメージでは戦前の昭和社会が各地で省資源型の暮らしを営んでいたわけだが、そのような生活体系にいったんは逆戻りしなければならないのではないだろうか。
そこにおいて、現代社会では壊滅しているものに「地域コミュニティ」があげられる。
現代社会ではスマホで会話し、SNSでメールし、接触もなく、引きこもりが推奨されている。孤独感や孤立感の強い社会であって、戦前のいなかで見られた「地域コミュニティ」はかけらもない。
それゆえに、「停止社会」でどのような「地域コミュニティ」を再生できるかが、生きていくカギを握る。
具体的には、農産物を分担生産して地域に分け合ったり、おふろやキッチン機能を集約し、五右衛門ぶろみたいな牧風呂やセントラルキッチンを地域に集約して相互に利用し合うようにしないと、個人個人の負担では暮らせないし、設備すらも自動風呂の時代だから、家庭にない。
水道設備も止まるなら井戸が必要だが、それもセントラル井戸で分け合うなど、相互扶助の工夫が必要だ。
■金融システムはどうなるか。
色々書いたが、日米欧の金融システムはどうなるかによって、こういうシュミレーションが役立ったり無意味だったりする。
だから、アメリカの金融システムを注視している。
また、日本の金融システムも同様だ。
私の世界観は、人類史で初めて出会う「逆転」の世界に生きているという認識だ。
その中では、私たちは人類史で初めて貨幣の無意味化を体験しうるだろうし、生活基盤である地域社会の再生も体験しうるだろう。
これらは、そう長い先に起きるのではなく、あれよあれよといううちに起きうるだろう。
こういう文章は人によっては嫌悪感でみられるわけだが、いままで、「得体のしれない不安感」や「なにかしなければ」という焦燥感をいだいていたあなたなら、その衝動の意味が少しは明らかになったかもしれない。
私たちは、人類として経験する未知の世界に漕ぎ出ようとしている。未知の世界はだれでも恐怖するものだ。しかし、理性的に考え、少しづつ準備しておくことで、私たちは未来をポジティブに変えることもできる。

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