長野オフ2(2016)<阿智村(みょうが畑)参加者募集>

今年は、「未来予測」を

選挙システム、これは民主統治というフリをした絶対官僚制なんですが、それも終わり、7/17−18を想定して、長野県・阿智村にて自然のバイブレーションに染まるオフ会を行なう予定です。 今年は「未来予測」をテーマにしたい。


展望糸口について

長野県・阿智村のみょうが畑は森田さんが営農しているもので、その草抜きのお手伝いを通して、自然派農業の在り方や、リニア新幹線工事問題などを見聞きすることができるほか、この社会の統治システムや消費産業文明の行き詰まりと、展望糸口について気づきを得ることができます


緊急事態条項

私が思っているのは、現システムの停止崩壊が迫っていることで、権力体は国会議員の2/3を得て緊急事態条項で強権的に乗り切ろうとするだろうが、「我々個々の在り方として糸口(解)は何があるのか、それを急いで見える化していかないと」、と思う次第です。


私はいつも、この手の未来軸の話をすると、結論として「菜園自給がだいじだよね」というふうに話をもっていくのですが、今回は、もしかしたら「崩壊後の社会の新デザイン」、というものが機軸になるかもしれない。統治、徴税、序列階層制、学制、医療福祉制、土木インフラ設計などが、そのまま今の延長線上で存在しているのか?そういう根源的な疑問があるからです。もしかしたら根底から新設計しなければならないのではないか????と。

その危惧の背景は、

①差し迫る大量疾病死者時代(ホ人口減→制度崩壊)、

②壊滅的大地震、

③世界金融崩壊と各国の財政破綻、

④用意された第3次大戦等・・・ですが、

更に⑤ポールシフト・暗黒3日間等の宇宙的要因も加算すると、現社会の延長線がどうも想像不可能なのです。現社会は持続できないのではないか???だから、社会の在り方を白紙から描き直すべきなのではないか???と。

とくに直近の未来に起きそうな世界金融崩壊。たとえば、これが起きれば国家財政機能や物流サービスまで機能停止するでしょうが、これを私は「混沌化」と呼んでいます。

が、混沌化の中でどういうふうに進むべき道を照射していくのか、混沌化終了後どう社会を再建していくのか(今ある統治システム、生産消費システムが無くなったあとの絵姿)。その糸口を見いだしたいとおもってやみません。

いま気づいていることは、精神性(価値観の大転換)がベースにあるらしいということです。①それはどのような価値観なのか、見える化・言語化してみることがひとつ。そのつぎに

②個と集団(社会)の組み立て方はどうなるかが2つめ。そのときに国家という概念が持続出来るかどうかは不明です・・・。混沌化を通しての社会の壊れ具合にもよるが、かなり生き残るなら統治徴税システムは残るだろうし、ほぼ壊滅したならば統治徴税すら消えてしまって、新たな社会設計が必要になるとおもう。近未来を展望するとき、後者の視点が必要だと、私的にはおもったりします。

③3つめは具体的にやる作業・行為・つながり・むすび・通い合いなどの在り方。それはデジタル時代だから海外まで時空間なしで直結しますが、新社会はどうなるのか?電気やデジタル技術は持続するのか、交通熱源としての石油は持続するのか、持続しないなら実際の生活空間はどういう距離感なのか。そうなるとフェイス2フェイスの関係性とはどうなるのか。いま集落が解体されているなかで、フェイス2フェイスの関係性はどう再生できるのか・・・。

まあこういう話は、SF作家とかがテーマにすべき話題かもしれませんね。あるいは、「課題に答えが含まれ、過去に未来が含まれている」としたら、人類の過去のなかにヒントがあって、そのヒントをスパイラルアップした新社会が出現してくるのかもね。


このような「あったらいいな社会」を、見える化・言語化しておくことは、人類の「集合無意識での飛躍的な共有」を生む意味でも重要とおもうんです。人類はみんな既に知っているのだが、それが封じられているだけなので、見える化・言語化していくことが道の照射につながるとおもう。

改憲の是非を考える人の絶対数も少なければ、ホ被爆回避や再稼働を考える人の絶対数も少ないが、混沌化とか混沌化以降の社会とかいう大前提で思考する者はもっともっと少なく(ほぼ皆無なんですが)、それはこちらの「見える化・言語化の努力が足りない」せいなのではないかとおもってみたり。

また、人々の想像力そのものも完全にテレビに牛耳られているなかで、人々の価値観の転換(パラダイム転換)を期待するほうが無理な相談であって、それは、「あったらいいな社会」を見える化・言語化していくことで、意識の導火線に火をつけて回るしかないような気もしたり。

・事例1)さゆふらっとまうんど もらっきーデタラメ放送局もスゴイ動画技術なんですが、ともに、『今ある不整合』を茶化し分析はするが、「あったらいいな社会」を見える化・言語化したことがない。選挙立候補者が語る公約については、どれもこれも実現不可能な「あったらいいな」ばっかりで、まじで興ざめ。

 

・事例2)Ωや宗教団体は、社会の『今ある不整合』や今後おきるハルマゲドンをオドシ文句にして、人々を振り向かせたが、彼らの「あったらいいな社会」は自前教義への忠誠だったり、現世利益の提供という幻想だったり。これって、思考停止・帰依促進状態へのいざないではないのか。

そう考えると、私の望む「あったらいいな社会」とは、『今ある不整合』や過去の歴史を分析し、底流構造を探り、その昇華を経て、過去と未来の因果関係をもとにした絵姿が描けていることがだいじなのではないか。とふとおもったり。

たぶん、こういうふうに「行ったり来たり」、するんだろう。

・絵姿としての「あったらいいな社会」
↑↓
・「こうやったらいい」方法とか
↑↓
・「つながったらいい」考えの分散処理とか、同時多発的な進行など


というわけで・・・参加者公募(予定)

 

7/17日曜 正午集合 高速阿智出口すぐのチェーン取り付け広場

       畑作業  夜は懇談会「未来展望」。YOUTUBEライブ中継予定

7/18月祝日 午前作業 午後解散