さて、話は変わりますが、都会は仕事にはいいし、刺激があって退屈しない。
むしろ課題や成果目標があって稼ぐために精力を発揮し、
また子育て期なら 平日は仕事で土日は子守(公園あそびや習い事で試合の送迎応援など)。
それだけで一週間は過ぎるし、たまには洗濯干しや 採り入れ、
食後はお皿の洗い物、犬のエサやりなんかで過ぎていき、
ネットで管理HPの書き込みをしていたら1年はすぐに過ぎる。
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そこから田舎に転居すると、そもそも目標というか
日課があるようなないようなものになり、
百姓しごとも草刈りも日程的には気ままな課題となる。
そうそう 追い立てられるプレッシャーはなくなり、
天気と季節にたゆたうように時間が過ぎる。
この転換がリタイヤ世代の第一の「ギアのきりかえ」となる。
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そうしたときに、なにが楽しみなのか、
何が張り合いとか生きがいなのかというと、
資本主義経済での生産販売活動の刺激ではなく、
「もっと大きな宇宙時間のなかへの同調なのではないか」とおもったりする。
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それは、瞑想の時間、なにも考えないありのままの想念をみているだけの時間が、
ある種の「法悦」みたいな、
ただあるがままという時間を味わえることに
至福をみいだすような。
そういう「ギアのきりかえ」なのではないかと思ったりする。
, 私は風呂で瞑想するのが日課になっているが、
それは母がなくなる以前から、
ぬるい湯温で うかぶようにほぐれながら 瞑想すると、
眼前に もやっと光がもやもやと広がり 明滅する。
ああ、なにか見えるものだけでないエネルギーがあるんだろうな、
なんておもいながら、
平穏であることが退屈ではなく、あるべき状態であり、
それだけがデフォルト(標準)なんだろうな なんておもっていた。
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なので、息絶えた母を第一発見し、
ほんらいなら気が動転するであろう事態の中で、
「ああ、母は肉体を離脱したんだな」という感じが
なんとなく直観されて、
救急搬送の車中でも、
「ああ、こんなふうに残務が粛々ととりおこなわれるんだな」などと、
事態をみつめていたようにおもいだされる。
, 人生をいくつかの区切りで認識すれば、
青年期~壮年期までは都会で労働と子育てだけでいいだろう。
老年期~死期までは、生命の神秘を感じながら
中山間部や沿岸部で「法悦」みたいな時を味わうのもいいのではないか。
, 奇妙なことに、日本社会は急速に衰退し、
全国が、経済アニマルから生き方の見直しという「ギアのきりかえ」時期に
なっている。
また、世界を見ても、急激に生産成長の方向が変わり、
金融システムも「グレートリセット」という崩壊と変化の時期になっている。
気象の変化も凄くてCOP28などは気象異変を
化石燃料のせいにしているが、もちろんでっち上げであって、
本当は地球の次元変化の時期になっていることが真実だ。
太陽の巨大Coronaも、地球を直撃し
未曽有の磁気嵐が降り注ぎ、
地球及び生命体に影響を与えている。
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こうしたマクロの変化をみても、
わたしたちは未経験の領域に達している。
だから、よけいに、「ギアのきりかえ」を
しておかねばならないとおもう。
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