生きる切なさ。

こんな文章に出会った。

それは、生きていくことの切なさを感じさせた。

 

方丈記の冒頭にある文章とのこと。

鴨長明は、出世競争に敗れ退き、みやこの栄枯盛衰や天変地異や火事をつぶさにみてきた。

ああ、私たちが所属するこのよすが。

それもだんだんと変わりゆく。

 

ふりかえれば、人生の流れで所属を何度も切ってきた。

会社は退職すると、人間のつながりも消えた。

そんな浅い、細い、上っ面のものではないよね、なんて思い込んでいたのは自分だけで、

たいがいは「所属」が人と人をむすぶ「もやい綱」であった。

 

いや精確に言えば、わたしは人にみくびられるのが怖くて、

「所属」が変わることが関係性を変えるんだと、言い聞かせているだけかもしれない。

そうすれば少しはプライドというものが保てるからだ。

 

だが、客観的にみれば、別れの本質は人にみくびられたにすぎない。

そして、その「価値のない人間であるということの受容」をすることは

とても恐怖でさえある。

 

この同時代の地上で同時に生きていても、

要するに「あんたには価値がないからさようなら」ということを

あるがままに受け止めなければならない。

 

そういうことが怖いから、別の何かの慰安に逃げる。

ないしはごまかしの論で「俺は悪くなかった」というような自己弁護に逃げる。

また、悪いやつは他にいっぱいいて枠珍や戦争や支配者など

こういうやつのほうが悪いから腹いせに叩いてやろう、などとすり替える。

新しい人生の目的をみつけて忙しくしていると前向きで気がまぎれる。

そんなふうに、わたしは「価値のない人間であるということの受容」をしたりしなかったりして

時がどうにかしてくれるのを待っている。

 

恐怖心のうち、自分のプライドがズタズタになることと、

死の恐怖と、どっちが怖いんだろう。

ふとそんなことを考える。

 

いまは、恐怖をちらつかせた人間支配が横行している。

ワクチュンなんて、その典型だし。

そういう意味では、ワクチュン打つなという啓発は、

死生観や恐怖支配ということを抜きにしてはうまくいかないんじゃないかな。

 

どういうか、具体的に死生観という言葉を使うことは日常ではないけれど、

人間関係で死生観を同じにしてるひととは馬が合うし、

死生観が異なっていればうまくいかないだろう。

 

ゆえに、ワクチュン打つなという啓発は、

生きるということの意味や価値を同じにしているときにはじめて効果を発揮するだろう。

 

そういう面倒なことを解り合っていないままで、

付き合いが上っ面だから、

死の恐怖だって何が怖いのかわからずに、

ただ情緒で怖れていることが多い。

 

そう。

そういう感じ。

いやなものから逃げる。

痛い。苦しい。ツライ。不自由。貧しい。絶望。そういうものが

病気や、倒産や、解雇などから押し付けられる。

だからそういうものの恐怖から逃げたい。

 

そうだ。

死の恐怖で政府だって社会保障をシステム化している。

年金や健康保険制度は、

基本的に加齢に伴う死や病気の恐怖が母体となってできた制度だ。

 

だが、ほんとうに恐怖を恐怖することしかできないのだろうか。

わたしたちは、それほどまでにバカにされているのだろうか。

 

 

そもそも、死はどうして恐怖なのか。

死んだらどうなるのか。

生命の本質は寿命がある肉体なのだろうか。

生命とは霊魂ではないのか。

霊魂には死がないのではないか。

終わりのない進化の旅をするのが霊魂ではないのか。

では生命の本質が霊魂であるならなぜ死を怖がるのだろうか。

生命の本質が霊魂であるならなぜ別れを怖がり、プライドの否定を怖れるのだろうか。

 

なにも動じることはない。

ただ感情を味わい、味わい尽くすだけでよくて、

恐怖のあまり自殺したり、自己否定したり、他人を恨んだり、

どうも恐怖という感情とうまく付き合えない人が多い。

恐怖という感情の使いこなし方を、だれも教えてくれないし、

だれにもそのメンタル制御能力が自覚されていない。

どうしたものだろうか?

 

どうかな?

みんなはどうおもう?

ちょっとでかいテーマだけど、いまなら語ってもいいよね。

枠、頃、戦争、恐慌...生死を分けるでかいことが起きるからね。

 

改憲、自由や人権がなくなってマイナンバーで管理されるね。

所有権だってない、タンス預金は全部没収とか、怖いよね。

命があるのにどうしてこんなに怖いんだろう。

 

恐慌と戦争で食糧がない、電気も石油もない。

グレートリセット、そして奴隷監視システム。

これは怖いよね。

命があるのにどうしてこんなに怖いんだろう。

 

わたしたちは、これから恐怖をまざまざと見せつけられる世の中に連行される。

いままでのほほんと暮らしていた分、

これから味合わされる恐怖は、ちょっとでかい。

 

でも、ほんとのはなし、何が恐怖なんだろう。

何を守ろうとして、何が恐怖なんだろう。

その恐怖心の実態がわかってないと、

わたしたちは永遠に解脱できないよね。

 

わたしたちの本当のマトは、

じつは自分の中にある恐怖心、そのメカニズムかもしれない。

ないしは、恐怖心を見つめるニヒルな目かもしれない。

 

いまちゃんと考えて行かないと、死んでからでは遅いからね。

だから、逃げたり胡麻化したりすり替えたりしちゃ、だめなんだ。

 

もういっかい、方丈記の死生観、世界観をもってくる。

このニヒリズム、無常を徹底的にみつめる姿勢。

それって、生きることを輝かせるというような前向きさとはちょっとちがう。

 

どういうか。

わたし流にいえば「せつなさ」だよ。

とてもとてもせつない。

わび‣さび・幽玄という美意識が日本の古典世界にはあるけれど、

その、わび‣さびにも似た「せつなさ」なんだよ。

似たような感情では、寂しさといってもいい。

でもちょっと違う。

胸の中が荒涼とした岩肌みたいになってて。

夜の月明かりが岩肌を照らすみたいなイメージだ。

遠くでオオカミが吠えているような。

風だけが吹きすぎていくような。

 

そんな死生観・世界観を噛みしめながら、

俗人的な世界に戻っていこう。

ありがとうとか、共感共鳴とか、見つけたり見出したりできる、

ああそんな価値があったなと、

通り過ぎる時のなかで、一期一会を噛みしめよう。