では、真の自己とはなにか?それは「霊的自己」である。
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肉体として生まれる以前から転生してきた本体が「霊的自己」だ。肉体が死に絶えても、永遠に存在し続ける実在こそが、「霊的自己」である。したがって、我々は外部事象の呼び水で「霊的自己」を呼び醒ますのだ。それが人生の旅の目的である。
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道元が座禅だけをひたすらしなさいと教えたのは、座禅で外部事象と自分を切り離すためである。しかし覚醒の教科書はない。先生がいるわけでもない。しかし座禅で得る何かが存在し、それが目的となっている。目的は外部事象の中ではなく、到達する先は内部にある。そこに在るのが「霊的自己」である。
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これからは、外部事象に何が起きるか予断を許さない。大地震、台風、飢饉、銀行封鎖など、激化する突発事態がいつ起きても不思議ではない。だから、それに一喜一憂しないことだ。それに喜怒哀楽のスイッチを与えないことだ。あなたはあなた。その淵源が「霊的自己」に在る。そこを発見しなさい。
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言っておく。外部事象そのものに固有の意味があるのではない。外部事象は多様な解釈を突き付けてくるだけだ。わたしの深層意識に恐怖があれば、外部事象を見たとき「恐怖」を呼び戻される。わたしはそれゆえに外部事象を呼び水にして、「それに恐れる自己」と出会い、その自己を認め赦していける。
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外部事象が、社会的弱者に炊き出しをする歳末年越し場面だったとする。わたしの深層意識に奉仕があれば、その外部事象を見たとき「尽くす喜び」を呼び戻される。わたしはそれゆえに炊き出しの外部事象を呼び水にして、「尽くす喜びを広げたい自己」と出会い、その自己を認め赦していける。
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ここで、改めて講釈を加える。「霊的自己」とはどんな意識体なのか、の解答である。外部事象に意味を見いだす主体。それが「霊的自己」である。ただし、その「霊的自己」は、最初は虚像であることが多い。「霊的自己」の表面に自我という意識体がまとわりついており、自我が「霊的自己」を覆っているからだ。
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だから座禅では、思い浮かんでくるすべてを「ただ、じっと、みつめなさい」という。評価など下してはならない。評価したり反省したりする前に、まず思い浮かぶ感情の主体をみつめる。感情は霊的自己を覆っている「自我」が巻き起こす。だから最初は「ただ、じっと、みつめる」だけでいいのだ。
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しかし、ただじっとみつめる所作は、とほうもなく難しい。即効性もない。何がどう変化したかもわからない。座禅の回数と時間だけが過ぎていくようにみえるだろう。しかし、あなたは留まってはいない。確実に自我の層を突き抜けて、霊的自己の淵源に近づいて行っているのだ。
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もっとわかりやすくいうと、ただじっと感情を観察すること、思い浮かぶ雑念を観察すること、その観察者たる意識こそが、最高に重要な意識なんだ。この物静かで、存在感が希薄で、小さな小さな存在こそが、わたしの霊的自己そのものである。そして、ハイヤーセルフでもある。
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さあ、2020年がやってきた。8年目になる。宇宙的には2012年でエネルギー波動の分水嶺を越えたわけだが、残念ながら地上第三密度領域に反映されるまでには時間がかかった。8年にもなれば、もちろん外部事象はさらに混沌の度が進むだろう。
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そして、いまだから伝えたいことがある。わたしはここ10年以上、アセンション実践倶楽部を発信してきたわけだが、出会っても通り過ぎてしまう人が多かった反面、ここにきて多くを語らなくても分かりあえる人との出会いがあるんだ。機が熟し、霊的自己同士が呼び合うように再会するのかも知れない。
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この世では霊的自己たちは距離に隔離されて、肉体に幽閉されて、時間軸も異なり、そうそう再会することもない。したがって、霊的自己たちの孤独感は深く、この人間社会では分かりあえることすらできない、と途方に暮れていた。そういう霊的自己同士が再会するのだ。
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この第三密度領域で、霊的自己たちが再会するときほど、「生きていてよかった」と思えることはない。人生をふりかえって、影響を受けた恩師、そんな方々との出会いもまた霊的自己と霊的自己との再会であったのだと、取り戻せない過去を振り返り感謝する。わたしも帰幽した恩師たちの年齢に近づいてきた。
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だから、これから起きる外部事象の急峻化・過激化は、わたしたちの霊的自己とは何の関係もないとはっきりいえる。それは呼び水にすぎない。むしろその過激な様相に感情を振り回されることなく、いまここで出会う霊的自己の盟友たちとの交流を慈しんだらいい。そして霊的自己の旅を味わおう。地上はこんなにもトリックに満ちている。でも、なんだか愛おしい。そうだ、おなじ生きているからだ。
2019-2020 1.1 節目に くりえいと